┃┃┃┃┃┃┃ 、きみが触れるから
痛いから離して。
何度も告げた言葉の、本当の意味に君は気付いているだろうか。
全く、君は本当にお節介で、何も解っていない。
「石田、帰るぞ」
「何しに来たんだ、黒崎」
他に残っていた部員が、井上さんが…不思議そうな顔で黒崎を見る。
此処は手芸部の部室。あまり部員以外が顔を出すことはない。
来るとしても、演劇部の衣装担当だとかなにかしら関連のありそうな人たちばかりで、彼のように全く縁のなさそうなヤツが顔を出すことなんて、まずない。
「お前、耳遠いのか?」
黒崎は不機嫌そうに顔を顰める。ただでさえ彼の髪の色に驚いている部員が、その表情に更に怯える。
「そんな顔をしたら皆が怖がるじゃないか」
「悪かったな。目付きが悪いのは元からだ」
「自覚あったんだね。だったらもう少し表情に気を付けなよ」
意図的に無関心な視線を投げれば、黒崎はムッとしたような顔で詰め寄ってきた。
「お前だって目付き良いほうじゃねえだろが」
「なんだって?」
「わ、黒崎くんも石田くんもやめてよぉ。
石田くん、手怪我してるんだし、もう時間だしっ! 鍵とか、やっておくからっ」
睨み合いを始めてしまった僕と黒崎の間に、井上さんが割り入って来る。
「・・・・・」
彼女の困った様子に、大人気なかったか、と思い、急にみっともない姿を晒した気がして視線を逸らした。
「ほら、井上もああ言ってるんだ。帰るぞ」
「だから…」
また言い返しそうになって、井上さんの苦笑いを視界に捉えた僕は口を噤む。
「早くしろよ。本当にお前、トロいなぁ」
いつの間にか入り口まで引き返していた黒崎が言った。彼は人のテリトリーに入ってくる時でさえ自然体で、なんだか腹が立つ。
「失礼だな。本当に何しに来たんだよ」
道具を片付け、残っている人にお先に、と頭を下げる。
「だァから帰るって言ってんじゃねえか」
「…僕の帰宅と、君の帰宅は関係がない筈だろう」
鞄を手に取ると、入り口にもたれかかっていた黒崎の顔も見ずに隣をすり抜ける。振り返らずに歩いていくと、黒崎が後ろから早足で追いついてきた。
「おい。迎えに行ってやってるのに置いてくってのはどういう了見だ」
肩を掴まれて、僕は立ち止まる。
「誰も迎えに来てくれなんて言ってない。君が勝手に待ってただけじゃないか」
「そりゃそうかもしれねぇけどよ…」
もっとこう、素直にありがとうとか言えないのかな、お前って。
黒崎が不服気に呟く。
「冗談じゃない。君の自己満足に、どうして僕が感謝しなきゃいけないんだ」
「自己満足だァ? くぁ〜ッ可愛くねえ!」
「可愛くなくて、結構だよ」
睨み付けると、黒崎はお手上げだとでも言うように肩を竦めて歩き出した。
そんな事を、もう3・4日続けていただろうか。
始めは僕と黒崎が一緒にいるのを不可解そうに眺めていた周囲も、その状況に慣れてくる。
今や
「石田、お迎えだぞ」
だなんて、からかい混じりに言われる始末だ。
はっきり言って心外なのだ。僕は彼が居なくたって、やっていける。
今日は図書室で調べ物をしていて遅くなってしまった。
部活のある日でもない。
黒崎は帰ってしまったのだろう、と思っていると、図書室を出たところで壁に寄りかかっていた彼を見つけてしまった。
「何で居るの?」
驚いて、つい訊ねると
「怪我が治るまで、面倒見るって言ったじゃねえか」
彼は当然、と言ってのける。
確かに言われた。
自分も了承した。
でもだからって、普通ここまでするだろうか。
怪我だって、もう治りかけているのに。
「大丈夫だよ。僕をなんだと思ってるんだい。一人で帰れるって何度も言ってるじゃないか」
「どうして怒ってるんだよ」
「怒ってない。」
「その口調が充分怒ってるっつーの…」
彼を無視して僕は持っていた鞄を肩にかけようとした。
「無視すんなよ石田ッ!」
黒崎は僕の腕を掴んで引き止める。その掴まれた所が悪かった。一番酷く怪我をしたところで、まだ少しグズグズしていた場所だったから
「――ぁッ」
僕はつい、声を出してしまった。
「あ、悪ィ」
直ぐに手を離した黒崎は、僕から鞄を奪い取って自分の鞄と一緒に担ぐと歩き出してしまう。
「ねぇ、それ斜め掛けだから…腕には関係ないんだけど」
「良いから持たせとけって」
少し振り返って笑ってみせる黒崎の顔を、僕は何故か直視出来ない。
「ちょっとでも無理は避けたほうが良いんだ。ヒトが居る時くらいは楽しろよ、な?」
「……イヤだって言っても、君は勝手にやるんだろう?」
「まぁな」
この数日間、彼と一緒に居て解った事がある。
相手が望んでいるからとか、それが相手の為になるからとか。そういう理由で彼は動いていない。こうすれば良いことがあるだろうとか、此処でこうしておけば後で得になるとか、そんな理由も一切持っていない。
見も蓋もない言い方をすれば「自分がそうしたいから」しているだけ。
まるで子供だ。
その上、打算も計算もない行為、もしくは好意だということは直ぐに見えるから、余計に性質が悪い。
そこに僅かでも計算が見えるのであれば嫌いにでもなれるのに、そんな邪な思いは一切見えないから憎む事も恨む事も出来やしない。そんな事をしたら自分が醜くなってしまうだけだ。
彼は自分が他人にとって…いや、僕のような人間にとってどんなに残酷なのか、気付いていない。
「…此処で良いよ」
「そうか?」
僕は言って、最終的に夕食の買出しにまで付き合ってくれた黒崎の手からビニール袋を受け取ろうとする。だけど黒崎は
「でも今日水物買ってるから重いぞ。玄関まで持ってってやるって」
そう言って、僕より先にアパートの階段を昇っていってしまう。
すっかり通い慣れた道。
彼のそんな雰囲気に、突然呼吸が出来なくなる。
「…石田? おい、大丈夫か?! 具合、悪いならそう言えよバカ」
動けなくなってしまった僕に気付いて、黒崎が階段を駆け下りてきた。
「バカとはなん・だ――」
「ったく」
言いかけた僕の言葉を遮って軽々僕を抱き上げると、そのまま階段を昇りだす。
人に見られたら困る。
慌てる僕の気持ちなんて全く知らないで、彼は部屋の前まで抱きかかえたままで来てしまう。鍵、と言われて差し出したものを受け取ると「ちゃんと掴まってろ」なんて言って、彼は器用に鍵を開けた。
そして玄関に僕を下ろして座らせると、自分もしゃがんで此方の顔を覗き込んでくる。僕は見られているのが嫌で、顔を背けた。
「無理すんなって」
「してない。」
第一、いつも無茶やって、自分の身体の事なんて何一つ考えてないような君には言われたくない。
「辛いなら言えよ」
「辛くない。」
何故か胸が詰って苦しい、なんていうのが、君のせいであって堪るか。
「石田、こっち見ろって」
「・・・・・」
見ない。見たくない。
こんな僕を、君には見られたくないんだ。
「聞いてんのか? おい石田」
「聞こえてるよ、君の大声だったら」
「じゃぁ返事しろよ、心配すんだろ」
その言葉にカッと頭に血が昇った。黒崎を睨みつける。やっぱり息が苦しい。
「心配してくれなんて、僕は一言も言ってないじゃないか!」
ついに切れてしまった僕の声に、黒崎が眼を丸くした。
「迷惑なんだよ。どうして解らないかな。
君のする“親切”は迷惑なんだ。まるで僕が一人じゃ何も出来ないかのような扱いして。
大丈夫だよ。今までも一人でやってきたんだし、これからも一人で大丈夫だ。だから構わないでくれよ!!」
堰が外れたかのように、口から零れる言葉は止められない。これ以上言ったら泥沼だ。いけない、口を閉ざすんだ。
解っていても身体は言うことを利かなかった。
「だからか?」
「なに?」
黒崎が小さく呟いた。
「だから、お前そんなに他人のコト拒絶してんのか? 今まで一人だったから…?」
――それじゃ、寂しいだろうが。辛いだろうが。
「――ッ」
一番言われなくなかった言葉を投げかけられて、僕は黒崎を突き飛ばす。
「ぉわっ」
バランスを崩して転んだ彼に背を向けて
「もう良いから! もう帰ってくれないか。君と話すことなんてないんだから」
それだけ告げて黙り込む。
後ろで溜息をついた黒崎が、ビニール袋を床に置く音がした。
「なぁ石田」
「帰れ。」
「…迷惑かもしれねえけど、俺、お前の事無視は出来ないわ」
胸が今にも潰れてしまいそうな痛みを訴え、もう聞きたくもないのに耳はしっかり黒崎の言葉を拾ってくる。
「頼りたくないなら、利用するんでも何でも良いんだぜ?
なぁ、何か俺に出来ることはないのか?」
「莫迦な事を…何もないよ」
額から目の辺りにかけてが熱い。
「何かあったら、呼べよ。な?」
「僕が君を呼ぶなんて事、あるわけないじゃないか」
「あぁ、そうかよ…じゃ、帰るな」
そう言われて、不覚にも張り詰めていた気が瞬間的に抜けた。
「大事にしろよ」
ポン、と肩を叩かれて、それだけなのに力が抜けて、僕はその場に崩れ落ちる。
「おいっ!!」
慌てたような黒崎の声が遠くに聞こえた。
温かい君の体温は、触れられた部分からじわじわと僕を侵食する。
そして君はそのまま、僕の心の中にまで土足で踏み込んでくるんだ。
触れられたくない、隠しておきたい所を掠めておきながら、それに気付く様子もない。
お願いだから、もうこれ以上、気紛れで僕に構わないでくれないか。
このままでは、今まで築き上げてきた自分自身が壊れてしまいそうなんだ。
必死で取り繕ってきた僕が消えてしまいそうになる。
解っている。気付いている。それが君の前ではどれだけ無意味なことかなんて。
君に対しては、どんな仮面だって被っている意味はないのだろう。
君は気付けばそこに居て、全てをあるがままに受け止めようとしてくれる。
君の言葉は、どんなに耳を塞いでいても奥底にまで突き刺さってくる。
君は気付いているのだろうか。
自分の存在が、僕にとってこんなにも大きくなってしまっている事に。
君の事をもっと知りたい、なんて思ってしまっている事に。
そしてこの僕が、あの日差し出してくれた君の手を――離したくない、なんて思ってしまっている事に。
誰かの特別だなんて場所、今日まで僕は、求めた事なんてなかった。