┃┃┃┃┃┃┃ 今この手を離しても、いつかはまた触れることができるだろうか  

 こんなにも力の差があったのかと愕然とした。
 僕は甘かったようだ。

 自分でも笑ってしまうほど呆気なく、僕はあの赤毛の死神の前に破れ、朽木さんはただ呆然と立ち尽くしていた。
 彼らが何事か揉めているのは聞こえていた。このままではいけない。危険だ。思うのに身体が動かない。
 情けなかった。そして同時に、思っていた。
 こんな時にアイツは何をやっているのかと。
 死神が斬魄刀を振り上げる。
 
 駄目だ、僕じゃ太刀打ちできなかった。早くしないと彼女が…
 ――黒崎…ッ!

 ぎゅっと目を瞑る。
 と、感じ慣れた気配が近付いてきて、風を切る音と同時に地面が抉られる。そして聞こえた声。

 その声に安心して、雨竜は意識を手放した。


 浦原と言う人に一護を預けた時から予感はしていた。多分、彼は手の届かないところへ行ってしまうだろう…と。久し振りに見た一護の霊力はそれまでよりも大きくなっていて、彼は彼で真剣に修行していたのだろう事が解る。
「よ、久し振り」
「あぁ久し振りだね」
 その日たまたま商店街で会った一護は、何もなかったかのように、けれどぎこちない笑顔で右手を上げた。彼がそうくるのなら、こちらからわざわざ訊ねる必要もない。雨竜も一護と同じように、今まで通りの調子で返した。
「元気そうだな」
「おかげさまで」
 それから先の会話が続かない。それも当然か。一護はルキアの事で頭が一杯な筈で、その外の事に気持ちを割く余裕など、殆どない筈だ。
 だったら、何故声なぞかけてきたのか。
 ――たまたま見かけたから?
 そう考えられなくもない。一護はそういう奴だ。理解出来ない事の方が多いのだ。一護の行動を、雨竜はそう解釈する事にした。
「腕の調子は?」
 一目見れば解るのに、一護はそう訊ねてくる。
 雨竜の腕に、もう包帯はない。
「大丈夫だよ」
 簡潔な雨竜の答えに
「そっか…そりゃ、良かった。うん、良かったな」
 一護は珍しく奥歯に物が挟まったような口振りだった。普段あんなに歯切れが良いのに、何を言えずに居るのだろう。
 雨竜は一護の内情を推測しようとし、止めた。

 ――なんにせよ、僕には関係のない事だ。

「それじゃ」
 雨竜は結論付けその場から立ち去ろうと、正面に道を塞ぐように立っている一護の横をすり抜けようとした。その時漸く、一護はそれに気付く。
「…? なんだ、ソレ」
「なんでもない」
 雨竜の右手にあるものに気付いた一護は興味を引かれて覗き込もうとした。雨竜は見られまいと表情を硬くして、腕ごと背後に隠す。普段から極端に袖の短い服は着ていなかった雨竜だが、今日は暑い日にも拘らず長袖のシャツを着ていた。だから気付くのが遅れた。
「ま、いっか」
 隠してしまったものをわざわざ詮索しても雨竜は嫌な顔をするだけだ。一護はそれ以上訊ねようとはしなかった。

 再び自分の真正面に立った一護に、雨竜は言う。
「ねぇ、退いてくれないかな。通れないんだけど」
 無遠慮な言葉に、一護は困ったように頭を掻いてから言った。
「話がある」
「話?」
 雨竜は怪訝そうな顔をする。今必要な話が何かあるとは思えない。雨竜の態度は冷たかった。
「僕には、ない」
 退いてくれ、と重ねて言われ、一護は直ぐに言葉を返せず口篭る。けれどそれでもまだ、その場から動こうとはしなかった。
 行かせてもらえないのであれば仕方がない。雨竜は進行方向を変える。そんな雨竜の態度に一護は焦った。雨竜に話す事などなくても自分にはあるのだ。今此処で雨竜を逃すわけにはいかない一護は、また先回りをして立ち塞がった。
「何の嫌がらせだい?」
 雨竜は苛ついた様子で一護に訊ねる。
「嫌がらせじゃなくて、本当に大事な話があるんだ。聞いてくれないか?」
 その言葉には、からかいの様子も、ましてや冗談を言っている様子も見て取れず、このままでは本気でどこまでも付いて来そうな一護に、雨竜は諦めの溜息をついた。
「何? 手短に頼むよ」
 ようやく話を聞こうという態度を見せた雨竜に安心して、一護は少しだけ、肩に入っていた力を抜く。
「あぁ…あのな」
 言い出そうとしてみたものの、やはりそれは言い難くて一護は下を向いてしまい、いつもとは全く違う態度に雨竜は妙な顔をした。
 暫く眺めていたものの、一護が言い出す気配はない。
「話さないなら、退いてくれ」
 君と違って暇じゃない、と冷たい声色の雨竜に、一護は慌てたように顔を上げて言った。
「話す! 話す、けど…此処じゃ都合が悪ィんだ。
 あ〜お前ん家に行っても良いか?」
「・・・・・」
 どうせロクなことじゃないだろう。感じながらも、雨竜は渋々頷くしかなかった。

「ルキアを、助けに行く」
 部屋について玄関先、ドアが閉まると同時に靴も脱がずに一護は言う。
 ――そんな事じゃないかと思った。
 道中色々と考えてみたが、一護が話さなきゃいけない事と言ったらそれくらいしか思いつかない。
「なんで僕にそれを言うんだい?」
「なんでって…」
 雨竜の言葉に、一護は困惑した。雨竜はあの時自分よりも先にあの場に居たのだ。当然こう言えば一緒に来てくれるものだと思っていたのに。
「俺、あの時死にかけて…浦原に助けてもらって…」
 混乱して説明を始める一護に、眼鏡を押し上げつつ溜息混じりの雨竜は答える。
「知ってる」
 僕もその場に居たんだから。
 そう言われてしまっても、一護としては説明を続けるしかない。はいそうですか、なんて言って引き下がるわけにいかなかった。 

「修行して」
「だろうね、見れば解るよ」
「…尸魂界に行く」
 じっと一護を見詰め、透かして見るように目を細めながら雨竜は頷いた。
「…うん」

 頷かれても、と一護が戸惑う様子がありありと解る。
 いつまでも向き合っている気にはなれなくて、雨竜は僅かに身体の向きを変える。一護からはもう、横顔しか見えなかった。
「それで、それがどうしたって?」
 あまりに冷たい言い草に腹が立つ。
「石田! そりゃねえだろ」
 こっちを向け、と一護は雨竜の手を掴んで引き寄せようとした。しかし雨竜は身動ぎ一つせずその場に立つばかり。勢いで部屋の中に入ると、雨竜が眉を寄せた。
「手、離してくれないか」
「イヤだ」
 それまでの態度はどこへやら、今度は強引な態度を取る一護に雨竜は益々眉を寄せ
「……勝手にしろ」
 手を握られたまま、呟いた。

 振り払われるかと思った手はいつまでも自分の手の中にあって、一護はどうして良いか解らなくなる。
 もし今が、尸魂界へと向かう瞬間なのであればこの手を離しはしないのに。残念ながら、まだ数日猶予がある。
 迷っていると、雨竜が一護に視線を向けた。

「…見て解ると思うけど…」
 ぽつりと雨竜は呟く。
「もう、僕の怪我は治ったんだよ、黒崎」
「――え?」
 何を言い出されたのか解らない一護は、間の抜けた声を上げた。目が合うと、雨竜はまた、正面を向いてしまう。
「だから、君はもう、僕を構う必要はないんだ」
 ――最初から、あの怪我が治るまでと言う約束だった。君の居ない間に、傷はすっかり癒えたから。
「あっ」
 思い出した。そう言えばあの怪我が治るまでは、面倒見るって約束したんだった。一護は不意に気付く。
 非難するわけでもなく、ただ事実をそのまま伝えてくる言葉は、逆に胸に痛かった。
「悪かったな、最後まで面倒見られなくて」
「元より面倒見てくれなんて言ってないよ。それに、謝る必要はない。
 君は、自分に出来る事を全力でやっていたんだろう? 僕の…いや、他の事なんて思い出す余裕もなかったくらいに」
 思わず謝る一護に、雨竜が少し笑った気がした。
「石田…」
「朽木さんを助けに行くんだよね。
 僕になんて構ってないで、まだ出来る事、やるべき事は残ってないのかい?」
 静かに吐き出される声は、いつもに比べてずっと優しく響いて、一護は握る手に力を込める。一護が力を込めれば込めるほど、雨竜の身体は緊張していった。

「離して良いよ。君が取るべき手は…僕の手じゃない」
 何故か辛そうに、雨竜は言う。
 けれど、一護の手から力が抜ける事はなかった。

 ――直ぐに離されるのが解っていて、それでも尚繋がっている手を見るのはこんなにも苦しいものなのか。

 雨竜はぼんやりと繋がれた手を見詰める。
 もう体温も混ざり合ってしまって、どれが一護の温もりなのかさえ解らなくなってしまった。
 ――この手が離された時が…
 終りなのか。
 滲んでくる視界に気付かない振りで、雨竜はそっと一護の手に自分の手を重ねた。

「黒崎、離せよ」
 君の隣に、僕の居場所は無い筈だ。
 これ以上惨めになる前に、いっそ自分から離してしまおう。 

 ――この手に触れることは、きっともうない。

「もう、良いから」
 何度も言われて、一護は唇を噛む。
 一護の手が、今ゆっくりと離れていった。