┃┃┃┃┃┃┃ お手をどうぞ、おヒメサマ
二人の手が離れていく。
それはやたらゆっくりとした動作で、一護は戸惑う。
自ら離せと言ったくせに、雨竜の表情は手を離しても尚強張っていて、その顔色は繋いでいた時よりも悪く見えた。
一瞬その場に留まった手が「離さないで」なんて言っているように思えてしまう。
「黒崎」
僅かに震えて聞こえる声で雨竜が言った。
「もう用事は無い筈だよ。君は自分のやるべき事をすれば良い。僕は僕で、自分のやるべき事は解っているから。
もう、帰りなよ」
「石田」
「聞こえないのか? 帰れ、って、言ってるんだよ」
顔を上げた雨竜は何かを耐えるかのように眉を寄せていて、一護は思わず手を伸ばしそうになる。けれど、そんな仕草にも雨竜は敏感に反応して、僅かに後退った。
もしかして自分は、雨竜を傷つけてしまったのだろうか。
雨竜の中でどんな葛藤があるのかなんて気付けない一護は、心配そうな表情を隠さない。
「でも、石田…おめー…」
「また言わせる気なの?」
雨竜の顔が歪んだ。
「僕は一人でも平気だ。大丈夫、今までだって、そうやって来たんだから」
ね?
だから、帰って。
そう言う雨竜は、益々一護との距離を取ろうとする。そんな雨竜の態度に、一護はこれ以上我慢出来なかった。
「まだだ。まだ話がある」
「これ以上話しても、無駄だと思うけど」
「聞け。良いから聞け。
耳を塞ぐな、ちゃんと俺の言葉を聴いてくれ」
雨竜を睨み、一護は堰を切ったかのように喋りだした。
「俺はルキアを助けに行く。助けるって約束したワケじゃないし、アイツが俺にとってなにか特別だとかって理由でもない。ただ、俺はアイツに借りがある。それを返すまでは俺の気が納まらないんだ」
「…それで?」
雨竜の視線が揺れている。
「それに、だ。知ってるヤツが殺されるって解っていて、無視は出来ないだろうが」
「…あぁ」
――それは、僕だってそうだよ…
小さな雨竜の呟きにも気付かないほど、一護は頭に血が上っていた。
「俺はアイツを助け出して、連れて帰って来る。それが正しいのかなんて知らねぇ。でもルキアを此処に戻すんだ。その為に尸魂界へ行く。覚悟も出来てる。
でも」
「――?」
言葉を区切った一護に、雨竜は不思議そうな顔をして首を傾げる。
「でも…」
「なに?」
一護はもう一度言って、雨竜を正面からしっかり見詰めた。
「俺は、お前を放っておくなんてコトはもっと出来ない。」
「?!」
雨竜の目が大きく見開かれる。一護は離された距離を埋めるように数歩近付いた。
「ルキアを助けに行くんでも、死神への復讐でもあの赤毛へのリベンジだろうとンな事はどうでも良い。お前がどんな理由を持っていようがいなかろうが、そんな事は関係ない。
俺はお前を放っておけない。だから一緒に来いよ。
お前は俺の目の届くところに居ろ」
「・・・・・」
雨竜の眉が、困ったように寄せられた。
*
――なんて無茶苦茶で乱暴な言い草だ。
そういうヤツだとは解っていたつもりだけど、此処まで徹底していると感心してしまう。
「無茶言うなよ、黒崎」
漸く搾り出せた言葉に、一護はあっさりと返してくる。
「あ?! ナニが無茶なもんか。俺について来いって言ってるんだ。解りやすいじゃねえか」
「その解りやすさが…解らないよ」
もう本当に、どうして良いのか解らない。
彼と一緒にいると、完全に調子が狂う。予想外のことばかりしてくれる。
そして、救いようがないほどに強引だ。
「黒崎」
「なんだ? 石田」
「…もしも僕がオンナノコだったら、今の君の台詞は聞き捨てならないだろうね」
「ナニが」
「それじゃある意味、二股発言と一緒だ」
「…そうか?」
「そうだよ」
――アレもコレも欲しいなんて、そんなのは無理だ。
泣き笑いのような表情を浮かべたまま黙り込んでしまった雨竜に、一護は迷った末に言った。
「お前だけの物でいて欲しいのか?」
二股がダメだと言うのなら、お前だけだったら構わないのか?
悩んでいると思ったら、一体何を言い出すのやら。
雨竜は少し呆れた。
それはあまりに的外れな返答だ。そして――あまりに核心に迫る質問だ。
鈍いくせにいやに鋭い一言に、雨竜はつい訊ねてしまっていた。
「…もしそう言ったら、僕のモノになってくれるの?」と。
しかし眇めるようにして見るその視線の意味には気付かぬまま、一護はあっさり首を振る。
「いや」
「だったら、そんな無意味な質問しないでよ」
答えてしまってから、雨竜は慌てて口を噤む。これでは、自分が一護を欲していると白状してしまっているようなものだ。しかし当の一護に気付いた気配はなく、雨竜はまた、溜息をついた。
一護から言われた言葉は「山ほどの人を守りたい」というあの時の科白、それが彼にとっての事実で、その上自分がその中の一人にすっかり組み込まれてしまっているのだ、と認識させられる。
大勢の、山ほどの人の中の一人。
――冗談じゃない。
「でも、傍に居ろって言うならいつまでも居てやるぜ」
そう言う一護は何故か偉そうだ。正直言って、腹が立つ。
どうして自分ばかり余裕がないのだろう。何故自分ばかりが好きなのだろう。まるで、莫迦みたいだ。
「そう言ったのは君だろう。僕じゃない。
君みたいなお節介、僕は、嫌だ」
特別でないのなら、意味がない。
山ほど大勢の内の一人。そんな曖昧な立場だったら、要らない。
彼だったら、全てに等しい愛情を注げるのかもしれない。けれど自分でも情けなくなるほどに、それを甘んじて受け入れられるほどには人間が出来ていないのだ。
――君は、やっぱり何も解っていないよ黒崎。
「んじゃ、お前が要らないって言うまで傍にいてやる」
「そういう問題でも…あぁ、本当に君ってば偉そうだよね。もう、なんて言って良いやら…訳が解らないよ」
益々胸を反らす一護に、最早雨竜は何も言えなかった。
聞けと言うくせに、自分はこちらの言うことなんて聞きやしない。己の信じる道を突き進むのみだ。しかも、その行為は往々にして、周りを激しく巻き込んでいく。
自分がどれだけ周囲に愛されているか、自覚がないというのは罪だな。
雨竜は思って、両の手で顔を覆った。
…疲れる。ドッと疲れが押し寄せてきた。
「さっきも言ったじゃねえか。
お前は、特に目が離せないから、だから隣に来いって。
他のヤツは自力でどうにか出来そうだけど、お前は無理だ」
言い切られて、雨竜は心外そうに顔を顰める。
「…無理って、何だよ」
「放っておけない。一人にさせられない。
だから、俺が傍に居てやる」
一護はやっぱり、偉そうだった。
「……本当に、莫迦だな君は」
そして僕も、大概大バカだ。
彼のそんな言葉に単純に喜んでいる自分が居る。
こんなの、どうかしてる。
「腹立つな、お前」
「お互い様だよ」
言い返す雨竜に、にやり、と笑った一護は手を差し出してきた。
「ま、良いや。
ほら、こっちに来いよ。ココ、俺の隣はお前の為に空けといてやるから」
一護は自分の隣を指差し、雨竜は自分に向けて差し出される手を見詰める。
自分にとって、なにが幸せかなんてまだ解らない。
彼が何の為に、何を望んでそう言ってくるのかも解らない。(いや、一護に深い考えはないのだろう、という嫌な予感はひしひしとするが。)
この先に何が待っているかも、一切見えてこない。
ただ一つ解っているのは「朽木ルキアを助けに行く。」それが今回の一護の目的であることだけ。
自分にとって、命をかけてまで彼女助けに行く謂れは、本来ならない。
けれど、殺されると解っているのに完全に無視出来る程冷徹にもなれない。
尸魂界が、自分がこれ程までに憎んでいる死神だらけだと言うことも、充分理解出来ている。
それが、自分にとってどう作用するのかも凡そ想像はつく。
それでも。
それでもあちらへ行こうと思った理由は。
必要としてくれるのなら、微力でも良い、ただ、彼の役に立ちたいのだ――と、その時改めて自覚させられた。
「目障りになったら、いつでも直ぐに捨てるよ。
それだけは、覚えていてくれ黒崎一護」
「上等」
笑顔で一護が差し出した手を、雨竜はしっかりと握り返した。
いつか再びこの手を離す時が来ても、その時までは繋いでいよう。
伝わってくるこの体温が、唯一つの事実だから。
この温もりだけは、信じてみるだけの価値がありそうな気がした。